広瀬正『鏡の国のアリス』集英社文庫

ある美容整形外科医の元に、性転換手術の相談にやって来た青年。青年は医師に自らの奇妙な体験談を語る。彼は銭湯につかっていると、男湯に入っていたはずなのになぜか女湯に入っていたのだと言う。女湯から叩き出された彼が見たのは、あらゆるものが左右あべこべ、まさにルイス・キャロル鏡の国のアリスの世界だった…。その他短編3作を収録。この3作の中でのベストは「おねえさんはあそこに」



途中に挟まれる、「なぜ鏡は左右が逆に見えるのか」の解説部分が少々歯ごたえがあるが、全体的に独特ののんびりしたペースで話が進む。パラレルワールドの設定と、そこでとまどう主人公の描写が何とも言えずうまい。結末の後の余韻もよい。
広瀬正作品の魅力というのは、非現実の世界に入ってしまった主人公の心情描写がじつに巧みな点、それも、主人公の心情と読者の心情がシンクロしやすいという点にある。SF=「空想科学小説」であるから当然非現実の世界が描かれるわけだが、広瀬正はそれを「普通の人」の視点から描き、非現実世界の中で苦悩したり戸惑ったり逆に適応しようとする主人公の心情を描き出す。このように主人公の視点が一般的な読者の視点と同じところにあるので、読者は主人公の心情にスッと入っていくことができ、まるで自分がこの非現実世界を旅しているように感じる。
これは、SF的想像力と巧みな心理描写がうまく結びつけられた結果であろう。SF的想像力を駆使して虚構の世界を描いていながら、完全な絵空事ではなく、どこかにそんな世界が存在しているような気にさせられる。そのことが、作品世界に漂う独特の余韻を生み出しているのだろう。この辺は星新一の作品と相通じるものがあるかもしれない。
文庫版全集の各巻に付けられている豪華な解説を見ると、広瀬作品のノスタルジックな雰囲気に言及している人が多い。虚構の世界のはずなのに、いつか見たような「懐かしさ」を感じさせられる小説世界、ということなのだろう。虚構は虚構と割り切って徹底的に虚構の世界に戯れる作品も多い中で(それを否定はしないし、私もそういう作品を多いに楽しんでいるのだが)、どことなく身の回りの日常との接点を感じさせる作品にどうやら私は魅かれるようだ。