笠井潔『バイバイ、エンジェル』創元推理文庫

舞台がフランスで、ちょっとなじみのないフランス語の人名が登場したり、のっけから哲学の議論が登場したりと、とっつきの悪いことおびただしいが、謎解き部分は正統派の本格である。「首の切られた死体」の解釈にもひと工夫されており、探偵役の矢吹駆(カケル)が駆使する「本質直観」による推理も、今までの名探偵の推理とは一味違う味を出している。
 独特の雰囲気と言っても、文中でカケル自身が言っているように、「本質直観」という方法自体はある意味でどの名探偵も無意識のうちに利用している方法であるだろう。それこそ「本質直観」を用いて見てみれば、カケルの推理法の本質は過去の名探偵が駆使した方法とそれほど異なっているわけではない。しかし、事件の捜査に当たるモガール警部の娘・ナディアとの推理合戦の中で、カケルの推理の鋭さが浮かび上がってくる。
「何やら難解」というイメージの先行している笠井作品であるが、決して推理部分に手を抜いているわけではないので、読んでみることをお薦めする。

(この先、結末の内容に触れています。メイントリックや犯人については言及していませんが、未読の方はご注意下さい)
この本のもう一つの見どころは、<究極の革命組織>のリーダーであった犯人とカケルが、ラスト近くで戦わせる「思想対決」である。この部分は本筋の謎とは無関係だと言ってよく、なおかつモロに思想的な話が続くので、間違いなく読むのが辛い所である。「この部分はすっ飛ばした」という話も聞く。
しかし、私はこの部分を予想以上にすんなりと読むことができた。というのも、ちょうどこの本を読み始める直前に、「知ってるつもり!?」で連合赤軍永田洋子の特集をしていたのを見ており、連合赤軍事件の背景を聞いていたからである。
新左翼の理論家として執筆活動をしてきた作者が、新左翼運動の帰結としての連合赤軍事件に衝撃を受け、その経験を消化するためにフランスの地でこの作品を書いた、ということは知られている。普通のミステリ読者から見れば余計な部分でしかないこの思想対決も、作者にとってみれば切実な思いの元で書かれたものであった。革命運動が連合赤軍事件を引き起こすまでのプロセスを知ったうえでこの本を読んだことで、作者がこの本を書いた動機、そしてこの本に込められた「叫び」追体験することができた。非常に幸運なタイミングで読書ができたと思う。
人間救済のための革命運動が、究極的には暴力によって人間を虐げるというパラドックス。作者はカケルの口を借りて、この思想を乗り越えようとする。正直なところ、この思想対決の中で展開されるカケルの思想が「犯人」の思想を論破しきったとは思えない。普通の人間の「至高さ」を不用意に強調しているところがあるからである。
だが、作者がこの作品を通じて、暴力に走った革命運動と決別しようという意志ははっきりとわかる。それは『バイバイ、エンジェル』というタイトルに一番良く込められているのではないだろうか。救済をするものとして現れながらついには人間を虐げる革命思想は、まさに「堕天使」であった。作者は、堕ちた「エンジェル」に対して、「バイバイ」と別れを告げる。しかしその別れの言葉には、かつて人生を捧げたものに対する、いささかの愛惜と悔恨が込められているように思う。

読了して数日後、日本赤軍のリーダーである重信房子が大阪で逮捕された。かつて中東諸国などでは英雄視されていた日本赤軍のメンバーも、冷戦終結、そしてソ連崩壊という国際状況の変化の中で、次第に厄介者扱いされてきて、日本に戻ってくることになったという。最近のニュースでは、国内に大衆組織を立ち上げるとともに、その手がかりとして社民党を利用しようと言う計画があったと報じられている。そもそも議会政党と組もうとするというだけでも驚きなのに、共産党ならまだしも、一度は自民党と連立政権を組んだ社民党に触手を伸ばそうとしたとは! なりふり構わず、と言う感じでなんだか哀れである。
かつての「エンジェル」の姿が、ここにある。