内田百けん『阿房列車 内田百けん集成1』ちくま文庫

日本文学史の中で鉄道紀行文というジャンルが"確立"されたのは、宮脇俊三『時刻表2万キロ』(角川文庫)を書いてからだろう。だが、その前にも鉄道紀行文の「古典」に当たるものがいくつかある。その中で特に名が知られているのが、名随筆家・内田百けんの『阿房(あほう)列車』である。

「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」という一文の通り、ただ汽車に乗って行って帰ってくるだけの旅である。もちろん、今だったら東京−大阪ぐらいなら日帰りでも行けるが、百鬼園先生が最初の阿房列車を仕立てた昭和25年当時、最速の特急「つばめ」「はと」を使っても東京−大阪間で8時間かかったという。博多まで行くとなるとちょうど24時間かかったとのこと。そうそう気軽に行けるような旅ではない*1
借金までして電車賃をひねり出し、延々汽車に揺られて目的地に向かうのだが、行った先で何をするかといえば取り立てて何もしない。日帰りはできないので宿には泊まるが、よっぽど時間が空かないかぎり観光なんかはしない。本当に行って帰ってくるだけ。おまけに電車の乗り継ぎで2時間も待ったり、支線の途中まで行ってそのまま戻ってくるということをしている。阿房列車は冷静に見れば時間の無駄遣いをするだけの旅である。

名所も名産も出てこないこんな紀行エッセイだが、とても面白い。それは、百鬼園先生の名文もさることながら、時間の無駄遣いである阿房列車の旅が、むしろ旅の醍醐味の本質を教えてくれるからでもある。
私がうなずかされた百鬼園先生の箴言が、

行く時は用事はないけれど、向うへ著(つ)いたら、著きっぱなしと云うわけには行かないので、必ず帰って来なければならないから、帰りの片道は冗談の旅行ではない。
(p.8)

という一文である。この一文は旅に出るときの興奮と、帰るときの寂しさの本質を突いている。
用事がないかぎり、その気になればいくらでも予定を変更して、どんな時間のつぶし方でもできるからこそ旅は楽しい。逆に「帰りの電車or飛行機に乗る」という選択肢しかなく、もはや自由に使える時間がないからこそ旅の帰りは寂しい。かくのごとく、旅の面白さは、「時間を自由に使えること」にある。
そして、いくらでも時間を無駄に使えるという旅の醍醐味を、一番純粋な形で味わえるのが、この阿房列車の旅であるのだ。百鬼園先生の筆は、その純粋な旅の醍醐味を読み手に伝えてくれる。いわゆる「乗り鉄」の人でなくても楽しめる紀行文であり、読めば鉄道の旅をしてみたくなるはず。

阿房列車」の旅の素晴らしいところは、なにも新幹線や夜行列車で遠くまで行かなくても、あるいは全線完乗のようなものを目指さない人でも、「山手線一周阿房列車」「中央線高尾まで区間阿房列車」のように、身近な路線でも安上がりに「阿房列車」の運行ができるということである。私も今度、何にも用事はないけれど、電車で千葉か土浦か大宮まで行ってみようか。

(2005/10/30追記:既に現時点で阿房列車は6回ほど運行されている……)

*1:ちなみに、青春18きっぷを使って在来線の普通・快速だけを乗り継ぎ、東京から大阪まで行くのにかかる時間の標準が8時間ちょっとである。技術の進歩を実感するのはこんな時。