R・ギャリック-スティール『コナン・ドイル殺人事件』南雲堂

コナン・ドイルの書いたシャーロック・ホームズものの代表作として挙げられることの多い長編、『バスカヴィル家の犬』。そのあらすじをドイルとともに考えたとされ、ドイル自身がこの作品の冒頭で献辞を書いている、バートラム・フレッチャー・ロビンソンという人物がいる。だが、彼は「あらすじを考えた」どころではなく、『バスカヴィル家の犬』の真の原作者であり、しかもその死にはドイルがかかわっている可能性が? 推理小説の歴史に残る名作をめぐる謎をえぐり出す「ノンフィクション」。


この本は2年前ぐらいに話題になり、ニュースとして取り上げられていた。私もネット上のニュースに載っていたのを確かに見た。
『ミステリマガジン』2000年12月号はホームズ特集で、そこに例のフレッチャー・ロビンソンの短編も収録された。その解説で日暮雅通がこの「ドイル盗作&毒殺犯説」のニュースに触れ、「あまりにも突飛な説で、自作を出版したい人間による売り込みが見え見えなため、専門家たちもほとんど相手にしていない。捜査を約束したスコットランド・ヤードも、『利用された』と怒っていると聞く」と書いている。
それからどうなっているのか気になっていたのだが、今回島田荘司の後押しもあって実物が翻訳された。早速手に取ってみたが、結論から言えば日暮雅通の言う通りであり、あまり説得力のない「珍説」としか思えなかった。


まず、「ドイル盗作&殺人犯説」の真偽以前に、全体の構成で大きく損をしている。
最初の2章は、作者が家を買ったら実は幽霊屋敷で、霊能者を呼んでその霊と交信したり、写真の中の人物が現れたり消えたり云々というのが延々と続く。この霊の存在が「ドイル盗作&毒殺犯説」を検証するきっかけになった、と言われた時点で「どこが『ノンフィクション』だ!」という気分になり、さりとてこの幽霊話もちっとも面白くないので読む気がかなり萎えてくる。
それが終わるとフレッチャー・ロビンソンの伝記が始まるが、やはり最初の方は全然関係ない生い立ちや恋愛の話が続き、いつになったら本題に入るんだ、とうんざりしてくる。途中ではドイルが『バスカヴィル家の犬』を自分の作品にしてしまった経過が書かれているが、どこまでが事実でどこまでが創作なのかがはっきりしない書き方をしている。
その後ようやく検証に入るのだが、そこまでのフィクションめいた話のせいで、ここで出てくる資料が本当に存在するのかすら疑問を抱かせる。ハリー・バスカヴィルという、フレッチャー・ロビンソンとドイルの両者を知る重要な人物が登場するが、彼は本当に実在の人物で、BBCのインタビューのテープは現存しているのか。またドイルの死後から「『バスカヴィル』盗作説」がたびたび新聞の紙面をにぎわせたというのは本当なのか。「今までのドイル伝ではこんな話は一切出てこなかったから信じない」と言うつもりはないのだが、前振りの書き方が書き方だけにいまひとつ信用できない。これは純粋に構成で損をしている。


信用できないと感じさせるのは、論証のスタイルのせいもある。
たとえば、フレッチャー・ロビンソンの死亡証明書の名前が、「バートラム」ではなく、「バーナード」になっていたという「書き間違い」があったという点について。作者はここでいきなり「死亡診断書を書いた医師が何らかの作為を行った」とし、さらに死体のすり替えがあったことをにおわせている。あとでこれを補強する証拠はいくつか提出されるのだが、書き間違いというただ一点だけで「死亡診断書の偽造、そして本物の死体の隠蔽」へと話を進めるのは明らかに飛躍である。こんな調子の「論証」が続くのだ。
特にひどいのは、ドイルが父チャールズに対してひどい仕打ちを行っていたことを指摘したうえで、「ドイルは実の父にこんなことをするぐらいなのだから、フレッチャー・ロビンソンを殺すぐらい何でもないことだったろう」だと言い切っている部分である。ドイルの父に対する仕打ちについては仮に真実だとしても、そこから「そんな人間なら別の人間だって殺すだろう」と決めつけるのは何ともひどい話である。そもそも、先入観や当て推量で推理を勝手に先行させていくのは、かのホームズ自身が最も戒めていたことではなかったのか?
また一番最後に、さも「決定打の資料」かのように登場する、ドイル自身の日記がある。これが国立図書館から取り寄せた本であったことも問題だ。ドイル自身の日記であり、しかも国立図書館の蔵書に入っているならば、調査の早い段階でさっさと発見し基礎資料として使うべきではないだろうか? ここだけ見れば、ろくな文献探索もしていないで調査をしている、という印象を受ける。
都合のいい資料だけを小出しにしながら、ちょっとした疑問点に対して「これは明らかに奇妙ではないか?」とあおり、その検証もせずに先入観丸出しでどんどん疑問点をつなぎあわせて、いつの間にかドイルが殺人犯になっている。まるで「○○の謎を暴く!」式の出来の悪いテレビ番組のような作りで、論証や構成のずさんさが目に付く。おかげでまったく説得力を感じないし、そもそもドイル毒殺犯説の根拠がどこにあったかすら分からなくなってしまう構成である。
この本の中で取り上げられた資料や事実に関して、その妥当性を検証する材料を私は持っていない。ただ、ここまで書いてきたように、トンデモ説の一つにしか思えないような書き方をしているがゆえに、議論の信憑性を低めてしまって損をしている。というより、書き方云々以前に本当にいい加減な代物なのかもしれない。

これだけ長々と書くと、まるで私が「ドイル擁護派」であるかのようだが、別に私はドイルが貶されているから延々と批判を書いてきたというわけではない。要はドイル殺人犯説の真偽をとやかく言う以前に、この本がノンフィクションとしてもフィクションとしても出来の悪い散文であったことにがっかりしているのである。
それゆえ、この本はシャーロッキアンでない人は読んでも絶対面白くない。そして、「ホームズ」と名の付く本なら何でも買う人か、「島田荘司」のクレジットが付いた本なら何でも買う人でなければ、無理に読む必要のない本。もしかしたら、全世界で本の形になったのは日本だけ、という意味で、海外のシャーロッキアンが競って手に入れようとし、稀覯本になる可能性もあるかもしれないが。



もう一つ、訳文についても注文をつけておく。正直に言えば読み進めていくのが辛かった。いくつか目に付いたところを拾うと、

アリスはハリーにとって女性そのものであり、輝いていて、魅惑的で、その声は彼の耳をそば立てさせ、腰の動きは彼を完全に打ちのめした。アリスは彼より五歳年上で成熟さは彼に非常な喜びを与え、犬が骨に惹かれるようだった。彼は自分の感情を押し殺していたが、彼の情熱は出口を求め、馬でさえ彼が彼女のことを歌っているのを聞いたほどだ。
(p.57)

「どうしても執筆に惹きつけられてしまう、それをわかってくださるのですね。でも、ぼくは弁護士の衣装を授からないのですよ、お父さん」
「うん、そうなるね。しかし今は病原菌のように小さいが、やがてその気持ちはウイルスのように膨れ上がってしまうのだろう。私たちは君が回復するまで看護し続けるとしよう。あー、隠喩のように話したが、私自身は文学的才能を持ち合わせていないのでね。さあ、釣りでもしようじゃないか。道具は馬車の中にあるし、夕食には立派な鱈なんてどうだろう」
(p.61)

まるで「英文和訳の受験参考書」のような、間違ってはいないが構文通りに真正直に逐語訳しただけのような文章である。比喩表現をなんのひねりもなくストレートに訳してしまったり、会話文での人物の書き分けが皆無であったり、“Well,”だか“Ah,”だかが全部「あー、」になっていたりして、読みづらい。小鷹信光『翻訳という仕事』ちくま文庫)で、文法的には簡単な文章にいかにしてドンピシャの訳語を当てるかに苦労しながら翻訳の作業をしている様子が紹介されているのと比べると、ちょっといい加減すぎやしませんかと思わざるを得ない。



(2005/10/30追記:おそらく現時点で最も長い書評であり、かつ一番厳しく批判した書評だ。同志がいるかと思ってググってみたがあまり評がない。ここまで腹を立てたのは私だけなのだろうか。検索で見つけてちょっと笑ったのが、シャーロッキアンでこの手の本には目がないと思われる北原尚彦さんも、この本を新刊で買わずに古本屋で買っていた(11/23の項)ことだ。)