覚書

「ミステリー」の枠がどんどん広がってしまって、普通のエンタテイメントに近いものまで「ミステリー」というくくりに入れられるようになった。その状況で、「俺たちは『謎解き』が読みたいんだ! 『謎』がないミステリーなんてつまらない!」と考える人たちが、「謎解きのあるミステリー」の代名詞として持ってきたのが「本格」という言葉だった、と思う。「本格」あるいは「新本格」という言葉はこの文脈でミステリー読者を引きつけたと言えよう。
だが、この文脈で「謎解き」=「本格」を追求するにつれて、本格の本格たる所以を「謎」ではなく「解き」の方に見いだすようになってきた。「謎」と「解き」のバランスがとれているうちは良いが、いつしか「解き」を不自然に大きく評価するようになる。そして、「解き」が「一定の基準」を満たさないようなものはすべて「本格」=「謎解き」ではない、と言われるようになる。結果として「本格」=「謎解き」なるものがやたらと窮屈になるという、意図せざる効果を生んでいるようにも感じる。
ミステリーにも多様なジャンルがあって当然であるし、その中で好みも分かれて当然だ。しかし、本格であれなんであれ、ミステリーの出発点は「謎」だと考える。魅力的な「謎」を持つ物語なのに、「一定の基準」を満たさないからといって切り捨ててしまうというのは、「『謎』がないミステリーなんてつまらない!」という出発点からすると本末転倒とも言えないか。「うーん、すごい面白いミステリーなんだけど、『本格』ではないんだよねえ……」と妙な留保をつけながらミステリーを評するのは、少々息が詰まる。特に「日常の謎」を愛する私としては、なおさらだ。


「本格」の対概念としての「社会派」という言葉も、扱いに気をつけないといけない。小説に対して社会的テーマを求める風潮というものが存在し、謎解きオンリーの本格推理が一段下に見られていた時期があったことは確かだろう。だからといって、「社会派」という言葉を、「謎解きに重きを置いていないミステリー」と同義語として使ってしまってよいのだろうか。
かつて一世を風靡した「社会派推理」というものが、本当に「魅力的な謎」のないものだったのか。社会的テーマを扱いつつ、魅力的な謎を持つミステリーというのは本当にないのか。変な先入観を持って、「社会派推理」を十把一からげにするべきではないのかもしれない。


あくまで覚書。もう少しこの話を膨らませて書くかも。あ、ミステリマガジンはまだ買ってません。
(1/28:文章に手を入れました)