「暮らしに萌える」論のその先へ

その二次会の中で出てきた話。
shakaさんとさすらい人さんとの間で、「なんで冒険小説がいつの間にか受けなくなってしまったんだろうねえ?」という話になる。漫画論の話も引きつつあれこれと話をする中で、昔と今とでは物語を読む時のスタンスが違うのではないか、という話になった。

昔の読者は物語に対して「自己投影的に」、すなわち主人公に感情移入したり、「あー、自分もこんな男になりたいよなあ」という読み方をしている。それに対して、今の読者は物語に対して「第三者的に」、すなわち登場人物の内面に入り込むことなく、「この登場人物はかっこいい」という読み方をしている、という違いである。
冒険小説によく出てくる主人公のパターンに、「時に弱さも見せる、しょぼくれた中年絡みの男がここぞで活躍する」というものがある。こうした主人公は、人間らしい弱みを持つがゆえに読者は共感しやすい。これら凡人型の主人公の視点から読者は物語を眺め、自分を主人公に投影しながら、「こんな男になりたい」という意味でのかっこよさを主人公に見いだす。これが自己投影的な読み方になる。図式としては凡人探偵ものや青春ものがあてはまるだろう。
これに対して、今の読者が行なう第三者的な読み方になると、単純に外から見て「かっこいいか」という話になる。好まれる主人公は、かっこ悪い凡人型から欠点のない天才型になる。すると、主人公は必ずしも自己投影や共感の対象ではなくなる。かつ、内面から行動をトレースしてかっこ良さを実感するのではなく、記号的に与えられた「天才」「優秀」というラベルにかっこ良さを見いだす。そして、冒険小説の典型的登場人物であった冴えない中年親父は消え、少々現実離れした雰囲気の若くて優秀な登場人物へとシフトする。こうした読み方の一つの形が、外面的なラベルを楽しむ「萌え」である。

「今の若い読者を想定するならば、逆に自己投影的に読むからこそ、登場人物が中年親父から同年代の若者にシフトするのでは?」などなど、細かいツッコミどころはいろいろ考えられる。ただ、視点としてはある程度いいポイントを突いているような気もする。