「本格 vs 社会派」論について

「社会派」の実態についてのアシェさん(6/25および6/27分)とフクさん(6/26分)の文を読んだ。ここから面白い議論になりそうなので今後を楽しみにしているが、その前に一点、小泉喜美子の議論について補足したい。
確かに小泉は“世帯じみて”“日常くさく”“みみっちく”なった日本のミステリーをこっぴどく批判している。ただしここでの対立軸は「謎解き重視の本格 vs 人間を書くことを重視する社会派」というものではない。小泉は、ミステリーを「読むに耐えない低級な読み物」と断じられることに反発し、同時に日本の数多くのミステリーが読み物として洗練されていないことを批判した。小泉が日本のミステリーを批判するときに、理想として対置していたのはチャンドラーやクレイグ・ライスといった、しゃれっ気とウィットのきいた作品であり、謎解きの有無を問題にしていたわけではない。
その証拠に、小泉はトリックばかりに汲々とするマニアもばっさり切って捨てている。以下の引用を参照。

それよりもはるかに大切なのは肝心の小説としてのいきいきとした感性であり、ポーもドイルもその豊かな感性ゆえに評価されるべきなのであって、それを忘れたミステリーは大人の読み物にはなれないと著者は言いきる。
実際、いまだに「ミステリーは文学か?」などと考えこんでみたり、本格・変格なる奇妙な分類にこだわったり、不自然なトリック考案や犯人さがしだけに汲々としたり、社会悪告発とやらに肩いからせたりしているのは日本だけの現象らしい。ミステリーの真の楽しさとは、著者も主張する通り、小説に対するもっと余裕ある態度からおのずと湧いてくる興趣をこそ指すのではなかろうか。
「外国ミステリーの楽しさ」『ミステリーは私の香水』文春文庫、pp.172-3

現在よく言われる「本格 vs 社会派」という図式は、謎解き部分の重みをめぐる対立(と私は理解している)だから、小泉の議論とはややズレがある。見方によっては、本格にしろ社会派にしろ、そう言う狭い部分にこだわる人々をともに批判しているとも言える。それゆえ、「現代にまで続く社会派嫌悪」の下地になっているかどうかは、多少留保が必要だと思う。島田荘司や鮎川哲也に比べ、小泉の議論がどの程度影響力を持ったかについても本当はきちんと評価する必要もある。
ちなみに小泉喜美子のミステリー観については、『メイン・ディッシュはミステリー』(新潮文庫)に詳しい。これは海外ミステリーガイドとしても楽しめる本なのでおすすめである。

その上で、お二人の話を踏まえて私も「本格 vs 社会派」という図式について考えてみたいと思うが、長くなるのでまた明日。