I-my-me-mine

牧人さんの1/15の日記を読んでつらつらと考えていたら、ちょっと長くなりそうになったので日記のネタにしてしまおう。

私の場合、オンラインでは、日記や書評では「私」、掲示板やチャットでは「僕」という一人称の使い分けをしている。ただしここに至るまでにけっこう揺れがあったのも事実だ。自宅でネットが使えるようになってからとあるメーリングリストに入ったのだが、そこで一人称をどっちにするかあれこれ考えたのち、たまたま「女性と勘違いされた」のをきっかけに「僕」で統一する、なんてこともあった。ホームページを開いたときに同じくどの一人称を使うのか悩み、最初のころは「僕」と「私」を併用したり、なるべく一人称を使わないようにしていた。
で、使い分けのルールがとりあえず安定したものの、まだ居心地の悪さは残っている。なぜなら、ふだんの会話では「オレ」、改まった場所では「僕」という使い方をしているからである。ふだんは改まった場所で「僕」を使っているにもかかわらず、オンラインではくだけた場所で「僕」を使うことになり、何ともちぐはぐになっているからだ。
居心地の悪い理由はもう一つある。石原千秋『教養としての大学受験国語』(ちくま新書)の141ページより引用。

そういえば、思い出したことがある。かつて上野(千鶴子)は加藤典洋との対談で、自分のことを「僕」と呼ぶ男性を、甘ったれているから「嫌いなんです」と批判していた。実は、僕はものを書く場合、研究論文では一切自称詞は使わず、「研究者」として発言するときは「私」、そうでないときは「僕」という具合に自称詞を使い分けているのだが、言われてみれば、僕の「僕」と「私」の使い分けこそが、上野の批判すべき「甘え」の典型なのだ。「『僕』と名乗ったときの文章は個人的なものですよ」という逃げ場を自分自身に許しているから。

これを読んで、ますます「僕」という一人称に違和感を覚えるようになってしまった。とは言いつつも、結局使い分け自体はそのまま続けているのだが。
そういえば、ネット上では「俺」とか「僕」という一人称を使っている女性を時々見かける。同書の142ページ。

一方、女性の自称詞は、上野の言うように「私」しかない。女性に一つの自称詞しか用意していないような社会が、つまりは男性社会なのである。

これは「ネットの上ぐらいは個人的なものを出したい」という意識の表れなのかなあ、と、ここまで話を進めてしまうといろいろ反論もありそうだし、「そんなつもりで使っていないんだけど……」とも言われそうだ。ここから先は本格的なアイデンティティ論やジェンダー論になってしまいそうなので、これでおしまい。