高松屋への招待〜中村雅楽探偵全集の味わい方
めでたく刊行が開始された戸板康二の「中村雅楽探偵全集」。ようやく刊行に到ったことを喜びつつ、一抹の不安を覚えるのは、「読んでみたら大したことはなかった」と思われてしまうことである。
「いまや絶版となってしまった名作」についてはミステリ系日記でしばしば言及される話であるが、えてして(私も含めて)読んだことのない人間にとっては、いざ読んでみると期待や「煽り」が大きかった分だけ「……こんな程度のものだったの?」と思ってしまうことがままある。
そこで、『團十郎切腹事件―中村雅楽探偵全集〈1〉 (創元推理文庫)』を手に取ってみた皆さまのために、「雅楽ものの読みどころ」を私なりの視点で語ってみたい。
雅楽ものの「欠点」
まずは、戸板康二作品を読んでいると引っかかってしまうであろうポイントを挙げてみたいと思う。これはもう事前に承知しておいてください、としか言いようのない所。もしここで評価が下がってしまうようであればやむなし。
文章が硬い
一番引っかかるであろう点はこれ。淡々と状況を説明して進んでいく文章なので、「目の前に鮮やかにイメージが広がる」ということはない。時に文章が頭にすんなり入ってこないこともあり、変に斜め読みをすると状況が分からなくなることもある。特に初期作品はこなれていない説明口調のものが多いので、取っつきが悪いことは認める。
時代背景の古さ
第一作「車引殺人事件」の初出は1958年。創元推理文庫の全集第1巻に収められた作品も初出は1960年までである。半世紀近く前の作品であるから、時代背景がピンと来ないのはやむを得ない。特に当時の大衆文化や風俗については、私も含めていまひとつイメージが沸かない部分が多いかと思われる。
歌舞伎へのなじみの薄さ
初出当時は、ようやく民放の日本テレビが放送を始めたばかりで、テレビの普及率もまだまだ低かった。芸能界はまさしく「芸能」の世界、すなわち歌舞伎や新劇、映画スターを中心に動いていた。だから歌舞伎の有名な演目などは一般常識的に知られていた部分もあっただろう。一方現代のわれわれにとっては、歌舞伎はさほどなじみのないものになってしまった。
歌舞伎に関する評論や一般向けの解説書も多く書いていた戸板康二だけに、歌舞伎の細かい知識については合間合間でほどよく注釈を入れており、まったくの歌舞伎門外漢でも読み進めることができる。ただ、根本的ななじみの薄さから、物語の情景がいまひとつピンと来ないことはままある。私自身、歌舞伎に対する知識はほとんどないので、正直良く分からない部分もある。
そして雅楽ものの「味わい」
これだけ欠点を挙げておいて、では、なぜ私はここまで雅楽ものが好きなのか。私の好きな雅楽ものの「味わい」を思いつくままに挙げてみたい。「欠点」に比べるとずいぶん曖昧な表現になるとは思うがそこはご容赦のほどを。
人情の綾
雅楽もので見られる一つのテーマが「人情の綾」。芸事に対する思いであれ、秘めた恋愛であれ、親が子に向ける思いであれ、さまざまな人間の思いの絡まりあいが、作品の中でしばしば重要な位置を占める。時に思いのすれ違いがひとつの悲しい結末を呼んだり、ある人物に向けられた暗い感情に人間の闇を見たり、最後に思いが届いたことの喜びを描いていたり、と様々な「人情の綾」が雅楽ものの読みどころ。淡々とした文章なだけに、こうした思いに対して読み手の側で想像をめぐらせることで、またしみじみとした情感が得られる。
時にこうした「人情の綾」が謎解きの重要な伏線になることもあるが、それ以上に雅楽翁がこうした人情の綾をくみとって味のある「裁き」を見せる所がまた魅力。「雅楽翁の梨園よろず相談」的な作品であっても、逆にこの「解決の妙」で読ませてくれる作品も多い。この辺は、加納朋子あたりの作品が好きな人なら意外と気に入ってくれるかもしれない。
元祖「日常の謎」
「謎解き部分の弱さ」は確かにひとつの「欠点」ではあり、パズラー志向の人には合わない部分もありそうだ。しかし、ささやかな「謎」から味わい深い物語を紡ぎ出す、北村薫以来の「日常の謎」派の元祖とも言える味わいもある。
有名な所では協会賞受賞作の「グリーン車の子供」*1。ざっくり要約してしまえば「新幹線のグリーン車で雅楽が子供と相席になった」というだけの話だが、さりげない伏線や味のあるオチなど、「日常の謎」好きならばきっと気に入るであろう作品。この他にも、中後期の作品には「ちょっとした謎解き」の妙を味わえる作品が多く、「日常の謎」好きの方ならばぜひとも読んでほしいところ。
また、齢七十七の雅楽翁はそうそうあちこち捜査に走るという訳にもいかず、それゆれおのずと安楽椅子探偵の趣向を帯びてくるところも、その手の作品が好きならば要チェック。たまにホームズばりに、一目見ただけでその人の行動を推理する、ということもやっている。
「最後の一行」の味
戸板康二の代表作のひとつとして、有名人のエピソードをまとめた『ちょっといい話 (文春カセットライブラリー 11-1)』(文春文庫)がある。この本では、エピソードを数行から十行程度でコンパクトにまとめ、最後にオチを持ってくる形で軽く締めるスタイルを採っている。この締め方がまた味があってうまい。
雅楽ものにも、「最後の一行」が何とも味がある作品が多い。最後の一行の後に、チョーンという柝の音が聞こえてくるかのような、きれいな締めを見せてくれる。この技は『ちょっといい話』で磨かれたのかもしれないが、私としてはやはり歌舞伎や演劇の幕切れのイメージが影響しているように思う。
全集第1巻であれば「松王丸変死事件」や「ある絵解き」などのラストが印象的。しかしこの「最後の一行」の味は、中後期になけばなるほど冴えてくるようにも思う。
後口上
雅楽ものの読みどころを思いつくままに綴ってきた。これを読んで、雅楽ものを読んでみたくなったか、自分には合わないと感じたかは皆さま次第。
ただし、ひとつだけ補足しておきたいことがある。私個人としては雅楽ものの魅力が現れ始めるのは中後期の作品、具体的に言えば「グリーン車の子供」以降だと思っている。
今回全集第1巻の初期作品を読み返して思ったのは、初期作品は謎解き風味は強いけれども、小説としてまだこなれていない部分があるとともに、「戸板康二作品の魅力」がまだ完全には出ていない、ということである。私自身、最初に読んだ戸板作品は講談社文庫版の『團十郎切腹事件』だったが、本格的に面白いと思ったのは最晩年の作品である『家元の女弟子 (文春文庫)』(文春文庫)*2で、完全にファンになったのは講談社文庫版の『グリーン車の子供 (講談社文庫)』を読んだ時だった。
だから、全集第1巻を読んでピンと来なかった方も、せめて全集第2巻『グリーン車の子供』まで読んでみてほしいと思う。特に、「日常の謎」ファンの方は是非。
(補記:雅楽ものの初期作品については、謎宮会ホームページの「戸板康二の原点を読む」の評が参考になる。)
*1:これは北村薫自身が『謎のギャラリー―名作博本館 (新潮文庫)』(新潮文庫)の中で、《日常の中の謎》作品の一例として取り上げている。
*2:この本の収録作はおそらく全集第4巻『劇場の迷子』に収録されるものと思われる。